としおの読書生活

田舎に住む社会人の読書記録を綴ります。 主に小説や新書の内容紹介と感想を書きます。 読書の他にもワイン、紅茶、パソコン関係などの趣味を詰め込んだブログにしたいです。

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テレビドラマ化された『書店ガール』の著者である碧野圭さんが、新しく『凛として弓を引く』という女子高生と弓道の関わりを選んだ作品を出していたので読んでみました。(私が気がついたときにはすでに第二巻が発売していましたが…)

本作は主人公が女子高生ではあるものの部活動の弓道ではなく、社会人が主催している弓道会を舞台として描いているのが特徴です。

スポーツとしてではなく、伝統的な武道である弓道の良さを描いている作品でした。

弓道未経験ながらも弓道ってすごい美しいなと感じてしまい、自分も弓道してみたいと感じさせられる作品で面白かったです。

以下、あらすじと感想になります。



『凛として弓を引く』のあらすじ


中学卒業後、東京に引っ越してきた矢口楓は高校入学までの期間に近所を散策していたところ、偶然足を踏み入れた神社の中で弓道場を見つけた。

その弓道場では大人に交じりながら一人の少年が弓を引いていた。

楓は少年の美しい姿に魅せられ、それと春休み期間中に神社の弓道場で初心者向けの弓道体験教室をやっていたこともありそこの弓道会へと入門する。

体験教室にはフランス人の男性、楓の祖母ぐらいの年齢の女性、30代ぐらいの女性と年齢が近そうな美しい少女と今まで楓が関わったことのない様々な人たちが参加していた。

弓道を体験できるということでいきなり弓を引かせてもらえると思っていた楓だったが、いざ教室が始まってみると説明が多くなかなか弓に触ることができなかった。

はじめのうちは説明の多さにうんざりしていたが、数日間弓道を体験すると日本古来の武道である弓道の奥深さに魅了されていく。

これは女子高生の青春と弓道の美しさを描いた物語だ。



感想(ネタバレあり)

弓道の魅力を描いた物語の構成


最初にも書いたとおり私も弓道を経験したことがなく、弓道に関する知識は物語冒頭の楓と同じ状態であったため楓とともに弓道に興味を持てるのがこの作品の面白いところでした。

弓道って弓を撃って的にたくさん当てることができる人が上手い人だと思っていたのですが、この物語を読んでその考えは違うことが分かりました。

もちろん弓を引く技術も大切なのですがそれ以上に作法が大切であり、それこそが弓道が武道でありスポーツではない理由なんだなと感じました。

楓も最初のうちは弓を引くことが楽しいと感じていましたが、物語が進むにつれて武道独特の空気感に魅了されていっています。

また段位試験でもただ弓を引くだけではなく、入場から退場までの作法を見られていたり、弓道に関する筆記試験があるのも独特だなと思いました。

調べてみると剣道などの他の武道の段位試験も筆記試験があるようで、サッカーや野球のようなスポーツでは考えられないシステムです。

物語の中でも乙矢が弓を綺麗に当てたにも関わらず、三段に昇級できない場面では武道であるからこそ動作の細かな美しさを審査員たちが見ていることが分かりました。

このように本作は楓とともに読者が弓道に興味を持てる構成になっているところが良かったです。



大人と関わることで成長する楓


この作品は弓道の美しさの他に大人と関わることで生じる高校生の成長も描いていました。

物語の舞台が部活動ではなく、社会人たちも参加するような弓道会だからこそ楓の成長を描くことができたのでしょう。

一般的な高校生が大人と接する機会といえば親と話すときか、学校や塾で教師や講師と関わるときぐらいな気がします。

この物語では弓道会を通して楓は多くの大人と関わっていきます。

楓も最初のうちは人見知りでなかなか知らない人とは話せませんでしたが、モローやゆかりたちと関わっていくうちに成長が感じられました。

物語の最後では弓道場を残すかどうかの大人たちの話し合いの中で、自分の意見をはっきりと述べており、子どもだからと甘えているのではなく弓道会の一員として楓が自覚を持っていることを感じることができました。

こういった物語を読んでいると現実世界でももっと学生と大人が関わるような工夫が必要だと感じます。

様々な大人と関わることで子どもはより成長することができると思うので国全体でそういった仕組みを作っていけたらいいのにな…。


まとめ


『凛として弓を引く』は弓道の美しさと女子高生の成長を描いた作品でした。

すでに第二巻も発売しているようなのでそちらも早く読みたいです。





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話題になっている夏川草介さんの『本を守ろうとする猫の話』を読みました。

夏川草介さんといえば『神様のカルテ』の印象が強いので、医療系の作品しか書いていないのかなと思っていました。

『本を守ろうとする猫の話』はどうして本を読むのかなどを説いてくれる作品で、読書家にとっては改めて本をよむ理由を考えさせられる作品で非常に面白かったです。

以下、あらすじと感想になります。




『本を守ろうとする猫の話』のあらすじ


夏木林太郎は幼い頃に両親が離婚したことが原因で、これまでずっと祖父とともに二人で暮らしてきた。

祖父は「夏木書店」という小さな古書店を営んでおり、林太郎は祖父の影響を受けてか昔から本を読むのが好きだった。

林太郎が高校生になったころ祖父が突然なくなり、林太郎は叔母に引き取られることが決まる。

叔母に引き取られると転校することになるため、友人のいない林太郎は学校にはいかず夏木書店の本の整理をして引っ越しまでの時間を過ごそうとする。

そんな林太郎のもとにトラネコが現れた。

そのトラネコは不思議なことに人間の言葉を話すのだ。

トラネコが林太郎のもとを訪れた理由は本を守るために林太郎の力を借りたいらしい。

トラネコについて行き夏妃書店の奥に歩いていくと、見覚えのない本を巡る迷宮につながっていた。

本を守るため林太郎は毎日本を100冊読む男、本の内容を一瞬で理解できるようにするために要約の研究をする男、売れる本を出版する男と議論することとなる。

彼らとの議論を通して林太郎は本を守ることができるのだろうか…。



感想(ネタバレあり)


『本を守ろうとする猫の話』を本が好きな人が読んだら、迷宮にでてきた男たちはどこか自分と似ていると思う人が多いような気がします。

実際に私は昔の自分と考え方がにているなと感じた人物がいました。


どうして本を読むのか


本書はどの章も非常に面白かったのですが、個人的に一番好きなのは第一章の「閉じ込める者」が好きです。

この章では本をたくさん読むことには価値があるが、同じ本を何度も読むことは価値がないという男が林太郎の敵として現れます。

本を一度だけ読んで本棚に閉じ込めておくというこの男の行為が昔の自分の読書の仕方に似ていたのでとても印象的でした。

私も学生の頃に本をたくさん読み知識を詰め込むことに価値があると考えていた時期がありました。

当時は一日に一冊本を読むという目標を掲げており、今考えると悪い目標ではないとは思うものの何かを知ることではなく本を読むことが目標になっているなと思います。

林太郎も男に対して以下のような台詞を放っています。
「本には大きな力がある。けれどもそれは、あくまで本の力であって、お前のちからではない。」
夏川草介『本を守ろうとする猫の話』 p.59

昔の私も男のように本をたくさん読んで自分が偉いだろうということを周りに自慢したかっただけなのです。

本というものは偉大で読めば読むほど知識が身についたように感じるかもしれません。

しかしどのように本を読んで得た知識を活かすか、その本の考えに対して自分がどう思っているのかなど自分で考えることが大切なんだということを本作を読んで改めて再認識することができました。



要約本に価値はあるのか


第二章で本を可能な限り短い時間で読めるようにするための研究を行っている男が現れます。

彼は太宰治の走れメロスを「メロスは激怒した。」という一言だけに要約します。

走れメロスを知っている人からしたら間違ってはいない要約だと感じるのですが、走れメロスで大切なのはメロスがなぜ激怒したのか、そしてその後どうなったのかということだと思います。

最近では難解な文学作品などを簡単に読めるように漫画にしたり、2ページほどに要約されている本をよく見ます。

このような本が存在する理由は男の言う通り、現代人は娯楽が多すぎて時間がないからなんでしょう。
「人は今、ゆっくりと本を読むことを忘れてしまった。速読もあらすじも、今の社会が求めているものだとは思わんかね」
夏川草介『本を守ろうとする猫の話』 p.118
正直私は本を短時間で読めるように要約していることは悪いことだとは思いません。

ただ、その要約はあくまで要約した人の主観が入っているものだと知ったうえで読んでもらいたいとは思います。

また、要約本もそれだけを読んで本の内容を知った気にさせるのではなく、読者が原作を読みたくなるようなものが増えてほしいなと思います。



まとめ


本作は夏川草介さんの本に対する愛が伝わってくる作品で面白かったです。

本記事を読んで興味を持った方はぜひ『本を守ろうとする猫の話』を読んでみてください。





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住野よるさん『腹を割ったら血が出るだけさ』を読みました。

最初は周りを気にしてばかりいる人間を描いただけの作品だと思いながら読んでいて、なかなか読み進みませんでした。

しかし、読んでいるうちに実際に今の若者の多くはSNSなどでこの登場人物たちのように自分を偽っているのかもなと考え始めることができなかなかおもしろかったです。

人によっては合わないと感じる人も多いのかもしれませんが、個人的には満足できる作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『腹を割ったら血が出るだけさ』のあらすじ


茜寧は世間一般から見れば他の女子高生たちと同じような趣味や好みを持ち、友達や恋人に囲まれ充実した高校生活を送っている少女だ。

しかし、そんな平凡な彼女は「愛されたい」という感情のために自分を偽って生きているにすぎない。

友人との会話でも友人が自分のことを好きになってくれるように考えながら発言や口頭をしている。

愛されたいという感情に囚われながら生活をしていた茜寧だったが、「少女のマーチ」という小説に感化されいつか自分を理解し受け入れてくれる人が出てきてくれるかもしれないと思うようになる。

そんなときに「少女のマーチ」に登場するアイそっくりの逢に出会う。

逢が自分を受け入れてくれる人物だと感じた茜寧は、「少女のマーチ」の物語になぞらえるように逢との仲を深めようとする…。

自分を偽る茜寧、真実しか考えない逢、過去を塗り替えたアイドル樹里亜の考え方が違う三人の物語が交差する青春群像劇。




感想(ネタバレあり)


個人的にこの作品は表面的だけを読めば浅いけど、深く考えれば現代人の悩みを表現している作品だなと思いました。

現代を生きる人の多くはSNSや普段の生活でどこか自分を偽りながら生きています。

そんな生活を送る中、心のどこかで自分を偽りながら生きることに嫌気を感じている人は少なくないのかもしれません。

この作品はそんな人たちに「自分を偽ることは悪くない。無理に腹をわらなくてもいい。」ということを住野よるさんなりに伝えようとした作品だと私は感じました


本作の登場人物である茜寧、樹里亜それと逢はそれぞれ違う生き方をしています。

茜寧は人から愛されるために現在進行系で自分を偽りながら生きています。

樹里亜はアイドルとして多くの人に愛される存在になるために過去の自分を亡かったものとして、今のボーイッシュな性格が本来の自分であると偽り生きています。

一方、逢は自分が好きな服を着たりするなど自分に正直に生きています。

偽りだらけの生活を送っている人からしてみれば、逢のように自分をさらけ出して生きている人は偉いと感じるかもしれません。

しかし、茜寧や樹理亜のように自分を偽りながら生きるのは悪いことではないと思います。

茜寧は愛されるために自分を偽って生きていることに苦しんでいますが、物語の最後では愛されるために生きているのも真実の自分だと理解し、偽ることに心を痛めながらも自分の生き方を受け入れようとします。

樹理亜も過去の自分が褒められることを今の努力が否定されているという風に苦しみながらも、最終的にはアイドルとして受け入れてもられるなら過去も現在もどんな生き方をしていても自分は自分だと前向きな気持ちで歩み始めます。

この二人のように自分が幸せに過ごすことができるのなら無理に腹を割って生きようとしなくてもいいのではないのでしょうか。

茜寧や樹理亜にとっての逢のように本当に困ったときに腹を割れる存在さえ作ることができれば、自分を偽っていても幸せに生きることができるように思います。



まとめ


『腹を割ったら血が出るだけさ』は今までの住野よるさんの作品以上にターゲットを悩める若者にしぼっている作品だと思いました。

腹を割ることができず偽りだらけの自分に苦しんでいる人は共感できる作品だし、それ以外の人たちにとってもそういった人たちの気持ちを理解できると思うのでぜひ読んでみてください。




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有川浩さんの『イマジン?』が文庫化されていたのでさっそく購入して読みました。

本作は映画やドラマなどの映像作品を作成している制作会社に焦点を当てた作品となっています。

監督や俳優のようには目立たないが、スタッフロールで名前がでるような人たちが映像作品を作成するにあたりどれだけ努力しているのかが分かり非常に面白かったです。

また、第一章のタイトルが「天翔ける広報室」となっており、自身の『空飛ぶ広報室』をモデルに物語を作っているなど有川浩ファンにはたまらない内容となっています。

以下、あらすじと感想になります。



『イマジン?』のあらすじ


バイト仲間に突然「朝五時。渋谷、宮坂益上」でバイトがあると言われたことをきっかけに良井良助の人生は変わった。

良助は子どものころに見た「ゴジラ対メカゴジラ」に自身が住んでいた別府が一瞬舞台として現れたことをきっかけに映像の世界に夢を抱く。

映像の専門学校を卒業して、春から東京の制作会社で働くことが決まったのだが、入社日に会社に行ってみるとそこはもぬけの殻だった。

どうやら会社が計画倒産をしたらしい。

良助は他の映像の会社に転職しようとするのだが、計画倒産をした会社の関係者というだけで狭い映像の世界ではどの会社からも嫌な目で見られる。

映像の世界を諦めバイトに明け暮れていた27歳の良助が、言われた通り朝五時に渋谷の宮坂益上に行ってみるとそこでは良助も毎週見ている「天翔ける広報室」というドラマの撮影が行われていた。

このバイトをきっかけに「イマジン」に誘われた良助は映像の世界に関わることとなる。

良助が憧れていた映像の世界は楽しいことばかりではなく、ありとあらゆる困難があるのだが、良助たちはどんな無理難題も情熱と想像力で解決していく。

映像作品の舞台裏を描いたパワフルなお仕事小説がここに始まる。



感想(ネタバレあり)


エンドロールに現れる人たちの努力


映像の世界で働いていない私にとって映画やドラマなどは俳優、監督それと脚本家の3つの要素さえそろっていればなんとかなるというイメージを持っていた。

しかし、『イマジン?』という作品はこのイメージを大きく変えてくれた。

どんなに有名な俳優や監督がその作品に関わっていたとしても、その裏にいる制作会社の人たちがいなければ素晴らしい作品は出来上がらないんだということに気付かされた。

良助たちイマジンのメンバーはお茶場の用意をしたり、ロケ先を取材したりなどやっている仕事は正直地味だ。

しかし彼らがいなければ良い作品を取れないことがこの物語を読んでいると伝わってくる。

例えば映像の中で現れる喫茶店などの何気ない舞台も、彼らが脚本を読み込みその場所をイメージしながら取材することで最高の舞台を見つけられる。

どんなに脚本が良い作品でも物語と舞台のイメージが合わなかったら駄目な作品になるだろう。彼らはそうならないように努力をしているということが伝わってくる。

また、物語の中で良助や殿浦が行っていたように何気ない一言を入れることで現場の空気を良くしている場面がある。

これは想像になってしまうが実際の現場でも制作の人たちは現場の空気を良くするために影で手回しをしてくれているのかもしれない。

この作品を読んで、素晴らしい映画を見たときは監督や俳優だけを褒め称えるのではなく、エンドロールに登場する彼ら一人一人に感謝をしたいなと思った。





想像し続けることの重要性


この作品のタイトルは『イマジン?』ということで想像し考え続けることの大切さを読者に説いている。

この物語では良助が想像し考えることでパワハラに苦しんでいた幸を救う場面などが印象的だ。

もしこの場面で良助が考えることができない人間だったら幸は映像業界の世界から去っていた可能性もあるだろう。

映像業界だけではなくどんな業界で働いているにしても常にありとあらゆることを考えて想像するのは重要なことだ。

作業を黙々とこなす人間ではなく、イマジンで働く人達のように様々なことを考え想像することで問題に対応できるような人間になりたいと思った。



映像業界のシビアな現場


映像業界は関わったことがない私からしてみると凄く華やかな世界というイメージがある。

しかし、実際はこの物語で出てきたように年功序列のなどの古いしきたりがありシビアな世界なのだろう。

本作では第一章では苦労はあるものの楽しい華やかな世界として映像業界を描いている。

しかし、二章目以降ではパワハラやセクハラがあったりするなど映像業界の闇の部分を描いている。

小説なので明るい楽しい部分だけを描くことも可能なのだろうが、あえてそうしないのは有川浩さんなりに映像業界の闇を改善してほしいという思いがあるからではないのだろうか。

こういった作品をきっかけに業界の嫌なところが少しずつ改善されていけばよいのにな。



まとめ


久しぶりに有川浩さんのお仕事小説を読んだのだが、『イマジン?』も元気と情熱をもらえる作品でした。

これをきっかけに『空飛ぶ広報室』や『県庁おもてなし課』などのお仕事小説を読み直したいなと思いました。




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少し前に話題となっていたカズオ・イシグロさんの『クララとお日さま』を読みました。

前知識として本書の主人公がロボットの少女という知識しかなく、ロボットやAIが好きな私としてはとりあえず読んでみるかという気持ちで購入。

読んでみるとクララという子どもに近いロボットの視点で物語が進みつつも「ロボットと人間の関係」、「階層社会への批判」がテーマとして描かれており、他のロボットが主人公の小説とは一線を画す作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『クララとお日さま』のあらすじ


クララはとあるビルで自分と一緒に過ごしてくれる子どもを持ち望んでいる、AF(Afiticial Friend)だ。

観察能力に優れているクララはショーウィンドウなどから外の景色を見るたびに外の世界に対して、様々な疑問が浮かび上がってくる。

そんなクララのもとにジョジーという少女が現れた。

クララをひと目見て気に入ったジョジーは、数日後に母とともに来店しクララを購入した。

ジョジーの家に来て初めて外の世界にでたクララは知らないことだらけの生活に戸惑いつつも、ジョジーとの生活を楽しんでいた。

クララは人間との生活をともにするうちに人間は孤独では生きることができないなど様々なことを学習していく。

そんな生活を送る中、ある日を境に元々病弱であったジョジーの体調が急変する。

ジョジーの体調の変化がきっかけとなりクララは自分がジョジーの家に来た本当の理由を知ることとなる。



感想(ネタバレあり)


多くは語られない世界観


『クララとお日さま』を読んでいると「AF」や「向上処置」など本作でしか目にしない独特な言葉がでてくる。

最近の小説はこういった設定を事細かく説明するものも多いが本書ではあえて説明しないことで読者に様々なことを考えさせようとしているように感じた。

AFと向上処置についての私なりの解釈をまとめていきます。

AFとは


AFはArtificial Friendsの略称で日本語にすると人口親友である。

本書の世界では教育をうけるために、子どもたちは学校に行かずオブロン端末を使って遠隔で授業を受ける。

そんな子どもたちは、社会性を学ぶためにたまに交流会を開き子どもたちどうしで関わらせるがそれだけでは社会性を学ぶのに不十分である。

そこで子どもたちが一人でいても社会性を学ぶことができるようにするための存在としてAFが開発された。

AFは人間に近い思考をもっており、子どもと同じように学習能力を持っている。

そのため子どもの友達代わりとしてともに生活を送ることができ、子どもの社会性を広げる存在となっている。

現代のオンライン授業などが増えた現実世界でも、社会性を学ばせるためにクララのようなAFが現れる日は近いのかもしれない。

向上処置とは


向上処置は遺伝子操作のことで、本作の世界では98%の子どもが向上処置を受けている。

向上処置を受けている子どもたちは、受けていない子どもたちと比べて学習能力などの人間としての能力が高くなりやすいことが想像できる。

多くの大学では向上処置を受けていない子どもは能力が低いとみなされて、試験を受ける資格すらあたえられず入学することもできない。

リックが向上処置を受けていないことから向上処置を受けるのにはそれなりのお金が必要だと考えることができる。

また向上処置は一見受けない理由が内容に感じるかもしれないが、デメリットとしてジョジーのように病気になるリスクがあり最悪死んでしまう可能性もある。

もしかしたら病気になることを恐れてあえて向上処置を受けていない子どもこの世界には存在するのかもしれない。





激しい格差社会


本作では物語の最初から最後まで格差社会について考えさせられる内容が描かれている。

この格差社会は人間だけではなく、AFたちのなかでも存在するようだ。

第一章ではクララたちB2型のAFのことを最新のB3型のAFたちが見下しているシーンが印象的だ。

人間により作られたAFたちがこのような心を持っていることから、それを作った人間たちが下のものを見下すのを当たり前としている社会の縮図が想像できてしまう。

第二章以降では、向上処置を受けていない人間が向上処置を受けた人間に見下されている様が印象的である。

特にそのシーンが顕著なのは交流会の場面である。

リックが向上処置を受けていない子どもだという理由だけで、周りの子どもたちがリックのことを哀れんでいることが分かる。

このような態度をとるのは、大人たちが普段から向上処置を受けていない子どもを見下しているからだろう。


また、向上処置を受けていないと多くの大学では試験を受ける資格すら得ることができない。

私はこの物語を読んでいて向上処置を受けるのには多少なりともお金が必要だと解釈した。

そのため、カズオ・イシグロさんはお金がないだけでどんなに賢くても教育を受けられない、悲しい子どもの存在を読者にリックという登場人物を通して伝えたかったのではないのかと思われる。


AFの最後


ジョジーの大学進学が決まった後、お役御免となったクララは廃棄される。

クララが廃棄された場面を読んだ私はなんとも言えない気持ちとなった。

ジョジーを成長させるという役割は終えたかもしれないが、その後母親とともに実家で暮らしたり、ジョジーとともに大学に行くなどのクララがジョジーたちと今後もともに過ごすという選択肢はなかったのだろうかと思ってしまう。

ジョジーはクララに対して別れ際に「あなたは素晴らしい友人だったわ、クララ。」という言葉を放っている。

こんな言葉を放っているにも関わらず廃棄されたことから、クララがどんなに素晴らしく人間のように振る舞うことができるロボットだったとしても、ジョジーたちにとってクララは人間になりきれていない単なる物なんだということが分かる。

現代社会ではまだクララのような心を持っていると言えるようなロボットは存在しない。

今後もし、クララのような存在が生み出されたとき私たちは彼女たちの役割が終えたときジョジーたちのように廃棄してしまうのだろうか。

最後の場面はAIが発展している今だからこそ、もし人間と同じような存在が生まれたときにどういう扱いをするのかを考えさせられてしまう。



まとめ


『クララとお日さま』は格差社会という現代社会の問題と心を持ったAIが現れた後の社会の問題が描かれておりとても面白い作品でした。

これをきっかけにカズオ・イシグロさんの他の作品も読んでみたいなと思いました。



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湊かなえさんの『落日』が文庫化されていたので、早速購入してきました。

本書は主人公の長谷部と千尋がとある事件のドキュメンタリー映画を作成するために過去に起きた事件の真相を少しずつ解明していくという物語でした。

事件の真相が解明されていくにつれて登場人物たちへの真相が大きく変化していき、面白い物語でした。

以下、あらすじと感想になります。



湊かなえ『落日』のあらすじ


新進気鋭の映画監督である長谷部香りには子どもの頃の忘れられない思い出がある。

彼女は忘れられない思い出の真相を知るために15年前に起きた『笹塚町一家殺人事件』という引きこもりの兄がアイドルを目指していた高校生の妹を刺殺し、その後放火して家族全員を死にいたらしめた事件の映画を撮影することを決めた。

そんな長谷部が脚本家として目をつけたのは笹塚町生まれの脚本家、甲斐真尋である。

真尋は東京の大学を中退して脚本家の門を叩いたものの、10年間脚本家としては上手く行っておらず仕事をやめ笹塚町に帰ろうか悩んでいた。

そんなときに長谷部からの誘いを受け真尋は脚本家としてもう一度挑戦してみようとして、長谷部とともに事件に向き合うことにした。

二人で事件について調査していくうちに、この事件には驚くべき真実が隠されていたことが分かる。

長谷部は映画を撮影することで、自身の知りたかった真相を知ることができるのだろうか。

真尋は脚本の作成を通してずっと逃げ続けていた事実と向き合うことができるのだろうか。



感想(ネタバレあり)


真実とはなにか


この作品は「笹塚町一家殺人事件」のドキュメンタリー映画の撮影に向けて物語が進んでいく。

その目標に向けた長谷部と真尋の奮闘を通してドキュメンタリー映画を撮影することの難しさを感じさせられた。

「笹塚町一家殺人事件」の真相を知っている人物は犯人の立石力輝斗だけである。

しかし、力輝斗には直接話しを聞くことができないため、長谷部と真尋は当事者本人からは事件の話を聞くことができず関係者たちから調査していくことになる。

様々な関係者に話を聞いていく場面を見ていて、関係者はあくまで関係者から見た主観でしか話をすることができないんだなと感じさせられた。

関係者の中には、事実を確認せずにマスコミや他人が話していた内容を自分の考えと置き換えて話すものもいたりした。


最終的に真尋は調査した結果と自分なりの解釈を混ぜ合わせて原稿を作成し、長谷部に提出した。

この原稿はこの物語を読んできた我々にとっては事件の真相が解明された答案のような原稿となっている。

しかし、あくまで真尋の主観が入っていてその原稿が事実を描いているかどうかは力輝斗にしか分からない。

今まで私はドキュメンタリー映画は事実を分かりやすく映像を見るものに伝えているものだと思っていたが、その事実もあくまで作成者たちの主観でしかないということをこの作品から学ぶことができた。

自分の目や耳をとおして調べていき、自分がなっとくした時点でその事実が自分にとっての真実となるのだろう。





落日というタイトルの意味


『落日』というタイトルの意味を物語の読み始めは、この物語では真尋や大畠凛子のように若かりしころ輝いていた人物の没落具合からつけているのかと思っていた。

しかし、物語を読み勧めていくにつれて落日というタイトルの解釈は段々と変化していく。

物語の中盤では、長谷部が考えていた夢のある真実が段々と陰りを見せていくことから落日というタイトルなのかもしれないと思った。

長谷部が描いていたサラちゃんは蓋を開けてみれば、虚言癖が多い人物だったという評判ばかり得られてサラちゃんの印象が悪くなっていくさまは落日というタイトルにぴったりだなとも思った。


しかし、物語を読み終えてからの私のタイトルに対する解釈はこれとも違った。

長谷部は父親の自殺をきっかけに人生が陰り始めるが、物語の最後では父親は自殺をしたのではなかったと分かり希望をみいだしている。

真尋は姉がなくなったという事実とようやく向き合うことができ、今後脚本家として生きていくか笹塚町に帰って生きていくかは分からないが、自分の人生を歩み始めることができる。

これらのことから私は最終的に落日というタイトルは「日が落ちて闇が溢れ出したとしても、いつかはまた日が昇り光が満ちてくる」という希望は消えないよという意味を持っているという解釈をした。

誰しも人生日が落ちてつらい時期もあるかもしれないが、いつかは日がのぼり幸せが待っているということを湊かなえさんは我々読者に伝えたかったのかもしれない。



まとめ


『落日』は真実とは何なのかということを描いている作品でとても面白かったです。

最近の湊かなえさんの作品は昔ながらのイヤミス感が残っているながらも、最後に希望が持ているという後味の良い作品が増えてきた気がします。

次の湊かなえさんの作品も楽しみだな。




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『そして、バトンは渡された』で有名な瀬尾まいこさんの『傑作はまだ』を読みました。

本作も特殊な形ではありますが家族の絆を描いている作品でした。

主人公の世間とは少しずれた感覚が面白く、読み始めると読了まで止まらずにすぐに読み終わってしまいました。

以下、あらすじと感想になります。



『傑作はまだ』のあらすじ


そこそこ売れている50歳の引きこもり作家である私の元に、突如生まれてから一度も会ったことない25歳の息子である永原智が突然やってきた。

彼は私が大学を卒業してからしばらくした後にたまたま一度だけ体の関係を持った永原美月の子どもだ。

子どもができたと知った彼女は子どもを産むと言ってきたが、彼女との性格の合わなさに結婚はせず毎月養育費として10万円を送るということになった。

それから、25年が経過し初めて息子に会ったが、智は見た目こそ私に似ているものの性格は私と正反対で人付き合いも得意で要領も良い。

そんな強引な智に押されて、バイト先から近いという理由だけで智との共同生活が始まった。

血の繋がりしかないと思っていた智との生活だったが、彼と過ごす間に私には今まで感じたことない感情が湧いてくるようになる。

特殊な父と息子の関係を描いたハートフルストーリー。





感想(ネタバレあり)


人との出会いで変化していく主人公


『傑作はまだ』の主人公である加賀野は引きこもりで根暗で、人との関わりは数ヶ月に一度ほど編集者の人間としか関わらないという少し世間から離れた人物でした。

こんな主人公に対して多くの人は共感できないと思うかもしれませんが、私は結構共感できるところがあるなと感じました。

私自身も社会人になってから、学生時代の頃と比べて友人と遊ぶ回数が減りが、仕事で関わるような人としか関わることがほとんどないため、加賀野とは少し違いますが引きこもりに近い人間です。

同じ引きこもり人間として加賀野の自治会に入るなどして無駄な関わりを持ちたくないなどの気持ちがすごく分かりました。

ただ、加賀野は智との出会いをきっかけに自治会の人など今まで出会ったことがない人と関わりを持ち成長していきます。

また、智と出会ったことでスターバックスに行ってみたり、無関心だった食事に興味を持ったりなど作家として生きること以外にも楽しさを見出していきます。

こんな加賀野を見ていると、私自身も新しい人と出会ったり、今まで経験したことのないことに挑戦したりして成長しないとダメだなと思わされました。


物語の結末について


『傑作はまだ』の中で「小説じゃないんだから、最後だからといって、すべてが明かされるわけではないだろう」という台詞が印象的です。

この台詞を見たときこの物語は最後には智が突如、加賀野の元を訪れた理由なども明かされるのかどうかがとても気になりました。

結果として、この物語は智が主人公が自殺する作品ばかりを描いている加賀野を心配して訪問してきたなど謎が明かされて、物語らしい幸せな終わり方をしていました。

もしかしたら人によっては、今後加賀野がまた一人で寂しく生きていくという終わり方の方が好きだという人もいるかもしれません。

しかし、私としては物語の中ぐらい幸せな結末を描いていて良いと思っています。

現実にもし加賀野のような人生を歩んでいる人がいたら、加賀野と同じようなことをしても上手くいかないかもしれません。

ただ、この物語の幸せな結末を読むことで自分も一歩踏み出してみようと思える人が増える可能性もあるので、個人的にはこのハッピーエンドはかなり気に入っています。



まとめ


『傑作はまだ』は瀬尾まいこさんの作品を一度でも読んだことがある人なら必ずハマる作品だと思うのでぜひ読んでみてください。

自分も加賀野を見習って色々と新しいことに挑戦していこうと思います。




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交通事故心理学の先生である吉田信彌さんの『事故と心理』を読みました。

本書では交通事故を起こす人たちのことを心理学的に分析していてなかなか興味深い内容でした。

少し古い本ではありますが、現代でも全然通用する内容で非常に興味深かったです。

この記事では『事故と心理』を読んで個人的に特に重要だと感じたことをまとめていきます。



『事故と心理』のまとめ



事故の被害者や加害者になりやすい年齢は?


世界的に交通事故の加害者となりやい年齢は免許取り立ての若者が多いようです。

中でも特に10代で免許を取得した若者が事故を起こす可能性が高いようです。

その理由として、若い人たちは少し無茶をすることが多いのが理由みたいです。同じように免許取りたてでも25歳などで免許を取った人たちは統計的に10代で免許を取った人よりも事故率が低いようです。


一方、事故の加害者となりやすいのは免許取得がまだできない子どもや高齢者が多いようです。



免許を保有している人の方が被害者になりにくい


免許を保有している人は、保有していない人に比べて歩行時に交通事故での死亡率が低いようです。

その理由は、歩行時に安全に歩行する術を免許を保有している人の方がよく知っているからです。

また、免許を保有できない子どもの歩行時の事故率は両親が免許を持っているかどうかが関係しているようです。

両親が免許を持っていれば正しい交通教育が可能であるため、子どもの事故率も低くなるようです。


運転時に重要なのは反応速度より正確性


多くの人は咄嗟の状況でブレーキを早く踏める人は事故率が低くなると考えるかもしれませんが、これは大きな間違いです。

実は交通事故を起こしにくい人は、反応速度ではなく正確性が高い人です。

正確性とは極端な例になりますが、ブレーキとアクセスを踏み間違えにくいような人のことです。

正確性が高いほど普段から安全運転することができ事故に遭遇しにくくなるようです。

免許センターなどで行われる交通教育では正確性が高くなるような教育を行なっているようです。


リスク補償説とは?


リスク補償説とは、工学的なリスク対策(自動ブレーキなど)を作ったとしても人間がその装置を過信しすぎて事故が減らないと言われる説です。

リスク補償ができたとしても、運転手にそのことを知らせずに運転させることが最も事故が起こりにくくなると言われています。

ただ、リスク補償を隠していたとしても近年ではSNSですぐに広まるなどもありあまり有効ではありません。

また、このリスク補償説が絶対に正しいのかと言われるとそういうわけではありません。1978年に左折事故が多いことから左折事故対策がとられましたが、この対策のおかげで左折事故による死亡者数は徐々に減少していきました。

つまりリスク補償はどんどん生み出されていきますが、交通参加者はリスク補償があるとしても、油断せずに運転することが重要なようです。



個人的に気になったこと


運転手と同乗者の性別や年齢の関係によって事故の加害者率が減少する可能性はあるのだろうか(男性は女性を乗せている方が安全運転する可能性が高いなど)?

近年ではペーパドライバーが増えているがそれが原因で若者の歩行時の事故率は上昇しているのだろうか?

高齢者は反応速度が遅くなるが、正確性が増すような教育ができれば事故率は減るのだろうか?


この辺りを他の本や論文から調べてみたいなと思いました。



まとめ


『事故と心理』を読んで交通事故を減らすためには技術的に安全率を高めるのも重要だけれども、その他に心理的に油断や慢心をせずに運転を続けることが重要だと分かり面白かったです。

また他にも交通工学や交通心理学関連の本なども読んでいきたいです。


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筒井康隆さんの旅のラゴスを読みました。

人生という旅にはいつまでも終わりがないということを教えてくれる作品でした。

普通とは少し違うSF要素があったのも面白かったです。

以下、あらすじと感想になります。



『旅のラゴス』のあらすじ


その世界の人々たちは、私たちが日常的に利用している自動車や電車などの高度な文明を失った代わりに壁抜けや集団転移などの超能力を得た。

そんな世界で旧文明の知識を得るために北から南へ、南から北へ旅をする男がいた。

その男の名はラゴス。

ラゴスは集団転移や壁抜けなどの体験や様々な人たちとの出会いと別れを繰り返して旅を続ける。

旅の途中で奴隷の身に落とされることもあったがそれでもラゴスは自分の目的を達成するために旅を続ける。

ラゴスが障害をかけた旅の目的を果たした後に見つけるものは何なのか。

一人の男の一生を描いた、SF旅小説。



感想(ネタバレあり)


説明されない世界感


一般的なSFとは物語の途中で世界観の説明があるのが一般的である。

例えばハリーポッターなら魔法が使える人々が存在するんだなと物語の冒頭を読めば小説の世界観を掴むことができる。

しかし、この『旅のラゴス』ではそういった世界観の説明が一切ない。

私たち読者はなんの知識ももたないままラゴスが生きている世界に投げ出されるのだ。

まず私が読んでいてこの世界はなんだと感じた最初の存在はスカシウマである。

ウマという名前がつくのだから我々の世界にいるウマのような生き物だとは想像できるがどんなウマかまでは詳細に描かれておらず、物語を読み終えてもスカシウマの正体を想像することができない。

ラゴスの生きる世界はこうした知らない生物たちばかりが現れる私たちが生きる世界とは違う世界なのだなと思いながら物語を読んでいると一気に現実に戻される場面がある。

それはラゴスたちがマテ茶を飲むシーンだ。

日本人でマテ茶をよく飲むという人は少ないかもしれないが、現実に存在するお茶だ。

このマテ茶を飲むシーンを読んで私たちは初めてこの世界が、現代の文明が滅びた後の世界なのだと知ることができる。

このように物語を読み進めていくにつれてこの物語の世界観を知ることができるため、小説を読んでいるだけでまるで私もラゴスと同じように旅をしているような気分を味わうことができるのが本作の面白いところだ。





人生の目的とは


有名企業に就職すること、お金持ちになることなどを人生の目的としている人は多いと思う。

そうした目的を持つことは悪いことではないが、『旅のラゴス』を読んで人生の目的というものは常に更新されて終わりがないのだということを感じさせられた。

ラゴスの当初の目標は、南の旧文明の情報が隠されている地に向かうことだった。

彼はバドスの町で奴隷狩りに会い、一時は奴隷に身を落としたがそれでも何十年もかけて南の地に到達した。

もちろん南の地に到着しただけでもすごいことなのだが、ラゴスのすごいところはそれだけではない。

彼は自分の人生の終点をその地とせずに旧文明の知識を自分の住んでいた地に持ち帰ろうと新しく目標を持つのだ。

さらにその目標を達成すると彼は何十年も前に愛していた女性デーデに会うため再び旅へと出る。

『旅のラゴス』を読んで人生という旅は自分が死ぬまで終わりがないのだということを再度認識することができてよかった。

自分も今の現状に満足せずに常に旅を続けなければならないという風に感じさせられた。



まとめ


『旅のラゴス』はSF小説ではあるものの、世界観の説明が少ないどこか変わった作品だった。

また、旅小説としてもラゴスの落ち着いた性格のおかげか物語に起伏はあるものの落ち着いて読むことができる。

これらの二つの要素のおかげで自分をラゴスという人物に投影することがしやすくまるでラゴスのように自分が旅をしている気分を味わうことができる作品だった。

『旅のラゴス』を読んで皆さんも未知の世界にでかけてみませんか。








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『52ヘルツのクジラたち』で本屋大賞を受賞した町田そのこさんの受賞後第一作目の『星を掬う』を読みました。

親と子のつながりを描いた作品で、個人的には『52ヘルツのクジラたち』より『星を掬う』の方が好みの作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『星を掬う』のあらすじ


千鶴は小学校1年生の夏休みに母に捨てられた。

母との最期の思い出は母と二人で夏休みに色々なところに旅行をしたところだ…。

30歳手前になった千鶴は、元夫のDVが原因で金銭的にも身体的にも苦しい状況にある。

千鶴は賞金ほしさに、母との最期の思い出をとあるラジオ番組に投稿してみた。

するとそのラジオを聞いた、恵真という母の娘を名乗る人物から会いたいという連絡がきた。

恵真に会ってみると彼女は母とは血がつながっているわけではないが、母に育ての親として感謝をしているようだ。

恵真に一緒に住もうと言われた千鶴は、元夫のDVから逃げたいということもあり、恵真と母が住む「さざめきハイツ」に向かいそこで千鶴を捨てた母と再会することになる。

自分の記憶とは違う母と出会い戸惑う千鶴であったが、彼女たちと暮らしを通して、千鶴は母が自分を捨てた理由の真実を知ることとなる。

普通の母親と娘の関係を気づくことができなかった、女性たちの物語。



感想(ネタバレあり)


人生は誰のものか


『星を掬う』を読んでいると人生は誰のためのものなのかということを常に考えさせられました。

主人公の千鶴は小学校のころに母から捨てられたことが原因で、自分の人生は上手くいっていないという風に考えていました。

このような考え方は自分の選択に責任をとるのが難しい、小学生や中学生なら許されるかもしれません。

しかし、大人になってまでこのような考えを持っていた千鶴は、人生の悪かった原因を母である聖子に責任転嫁していただけでしかありませんでした。

千鶴はさざめきハイツに来てからもそのことになかなか気づけませんでしたが、美保を見て彩子に対して自分と同じような態度をとっていたことから、自分の選択の失敗の原因を聖子に押し付けていただけだと気づきます。


また、聖子も聖子の母(千鶴の祖母)がなくなるまで人生を母に支配されながら生きていました。

しかし、聖子は母が亡くなったことをきっかけに、今までの全てを否定してでも自分らしい人生を送ることを決意しました。


彼女たちを見ていて「人生は誰のもの」という質問を問われたら、「人生は自分のものだ」と堂々と答えることができる人間になりたいと感じさせられました。





行動することで、つかめる幸せ


千鶴を見ていると幸せをつかむために行動することが大切だということを伝えられました。

千鶴は賞金目的とはいえラジオに自分の思い出を投稿するということがきっかけで自分の人生を大きく変化させることになりました。

もし、千鶴がラジオに投稿しなかったり、恵真と会わなかったり、いつまでたっても聖子と向き合おうとしなければ千鶴は幸せを掴めなかったに違いありません。

彼女は行動したからこそ、母が自分を捨てた真の理由を知ることができ、人として成長することができました。


親や先生の言う通りのことをする人間は世間から見たら良い子に見えるのかもしれません。

しかし、そのようなしつけを行っていると自分の行動に責任をとることができない人間が育ってしまいます。

子どもの幸せを願うのであれば、自分で行動することができて自分で幸せをつかめるような教育をする必要があるのだなと感じました。



まとめ


『星を掬う』は自分の人生に責任を持つことと行動することの大切さを教えてくれる作品でした。

また、物語をとおして人の暖かい心というものが常に感じることができました。

本屋大賞受賞作家の作品として申し分ない作品ですので未読の方はぜひ読んでみてください。







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