
芥川賞候補作と河合隼雄物語賞受賞作という言葉に惹かれ、今村夏子さんが書いた『あひる』を読みました。
『あひる』は独特な世界観がある作品ですごく楽しめました。本作は全三篇からなる短編集なのですが、短編とは思えないほど深いメッセージ性がある作品ばかりです。
本作についての考察と感想を書こうと思います。未読の方はネタバレもあるのでご注意ください。
あひる
あひるを買い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない―—。
「あひる」を含め、全編に言えることなのですが、本書の作品は文字数が少なく、難し言い回しがなく、普段本を読みなれていない人でも簡単に読むことができます。
そのため、内容はすごく分かりやすいのですが、描かれる日常の中に少し違和感が混ざりこんでおりその違和感をなかなかぬぐいきることができません。
私が本作を読んで感じた疑問は以下の3点があります。
- 誕生日会の夜に訪れた少年は誰なのか?
- なぜわたしと小さな女の子以外はのりたまが入れ替わっていたことに気が付かなかったのか?
- 主人公である「わたし」の正体は?
1. 誕生日会の夜に訪れた少年は誰なのか
誰も来なかった誕生日会の夜遅くに、「家のカギを失くした」といって一人の少年が家を訪れます。結局カギは見つからなかったのですが、誕生日会で振る舞う予定であったカレーとケーキをたらふく食べて少年は一人帰っていきます。「わたし」はどこかで見たことのあるその少年を父と母を慰めに来たのりたまであると考えており、その少年が訪れた翌日にのりたまのもとへ行きお礼を言っています。
現実的に考えるとこんなことは、ありえないのですが少年の「色白」という特徴とのりたまの「白い羽」は二人が同一人物であったと想定できるかもしれません。
また、少年がなんでもお腹いっぱいになるまでたらふく食べるという姿ものりたまと一致しています。
ただ本当にその少年の正体がのりたまであったかは、物語中では明確に明かされておらず。作品を読んだ読者の創造に任せるといったもののような気がします。
2. なぜわたしと小さな女の子以外のりたまが入れ替わっていたことに気が付かなかったのか
物語中でのりたまと呼ばれるあひるは三匹いたのですが「わたし」と物語の最後で登場した小さい少女以外はのりたまが入れ替わっていることについて言及していません。
主人公の視点から物語をとらえるとのりたまは入れ替わっているのですが、それ以外の視点から考えるとのりたまは一匹のあひるであった可能性もあるので本当に入れ替わっていたのかどうかは分かりません。
現実的に身近にいるものが多くの人が気が付かずに入れ替わるということはありませんが、物語中では、あひるが入れ替わるのはおかしくない世界であり、作中の弟や子どもなどの人間ももしかしたら読者が気が付かない間にいれかわっている可能性があります…。
3. 主人公である「わたし」の正体
主人公である「わたし」は一見、資格取得のために日々勉強を続けている女性なのですが違和感があります。
まず、弟が結婚していることから考えるともういい年齢のはずなのに毎日のように家で勉強しているだけで定職につかず結婚すらしていません。
両親は弟に子どもができるかどうかは心配しているのに、姉のことは全く心配しておらずまるで姉はいなくてもいいような存在として扱われています。
また、のりたまを見に来た子供が窓から顔をだしている「わたし」にすごく驚く場面があります。
これは、まるで「わたし」が存在しない人間であるかのようです。
物語の最後で弟は両親にだけ赤ちゃんができたことを報告し、その半年後引っ越してきます。わたしは、赤ちゃんが生まれた後も写真だけでしか赤ちゃんを見たことがないという描写があり、弟からはのけものあつかいです。
私には作者である今村夏子さんが「わたし」という存在にどういう意味を持たせたかったのかがいまいち理解できていません。
子どもに対してのいつまでも資格をとるということだけを生きる目的(資格を本当にとる気があるかは分からない)にしている「わたし」のような存在になるなというメッセージなのでしょうか。
おばあちゃんの家
私にはインキョに住むおばあちゃんがいる。あるときを境に、おばあちゃんが独り言をつぶやいたり、杖なしで歩くようになったり、まがっている背筋が伸びてきた。まるでどんどん若返っているみたいだ—―。
「おばあちゃんの家」は「もりの兄妹」とつながりがある作品です。「もりの兄妹」を読めばおばあちゃんが突然独り言を言うようになった理由は分かるのですが、おばあちゃんの不思議はそれだけではありません。
おばあちゃんがどうして、どんどんと若返っていたのかが分かりません。
そもそも物語序盤では、おばあちゃんは足が悪くあまり歩けないという設定でした。しかし、物語中盤になり、昔ようこが迷子になっていたときにおばあちゃんが杖を持たずに迷子になっていたようこを迎えに来てくれていたことが分かります。
この時点でおばあちゃんは家族には意図的に足が悪いように見せつけていたことが分かります、なぜおばあちゃんがそのようなことをしていたのかは謎です。
またようこが迷子になった際、自宅に電話をかけますがなぜインキョにいるはずのおばあちゃんが短いコール数ででることができたのでしょうか。
終盤で「おばああちゃんがどこからでも自由に出入りする」と書かれていたのですが、このことから恐らく昔から誰も家にいないときはおばあちゃんは勝手に家に出入りしていたことが分かります。
そもそもおばあちゃんは家族の誰とも血がつながっていないにも関わらず、父が生まれたときからインキョにいたようなので、実はおばあちゃんであるというのも嘘で座敷わらしのような存在なのかもしれません。
森の兄妹
「森の兄妹」はタイトルと貧乏で可哀想な兄妹という設定からなんとなく「ヘンゼルとグレーテル」を連想させる作品です。
モリオとモリコの母は病気であることから、モリオは家族をささえているすごくいいお兄ちゃんです。
ある日、モリオとモリコでいつものように三時のおやつを森の中に調達しに行っているときに、モリオたちは「おばあちゃんの家」に登場したおばあちゃんと出会います。
おばあちゃんがモリオになんでもあげるといってお菓子をくれるので、モリオはおばあちゃんのもとに足を運ぶようになります。しかし、おばあちゃんの誕生日会の日にようこと出会ったことで、モリオがそれ以降おばあちゃんのもとを訪ねることがなくなります。
どうしてモリオは突如おばあちゃんの家を訪ねなくなったのだろうか?
私は、それはお母さんがなんらかのきっかけでお金に困ることがなくなり、モリオがお腹を減らして出かけることがなくなったからではないのかと推測します。
物語の終わりにお母さんがモリオがずっと読みたかった「魔剣とんぺい」のコミックを最新刊まで全巻買って来てくれます。今まで貧乏でモリオが欲しいものはもらえなかったのに、突如お母さんが買って来てくれたことから経済状況が変化したと考えられます。
またこの作品は童話を連想させるような要素が多いことから最後はハッピーエンドになる可能性があるということも想像できます。
最後に
『あひる』をきっかけに独特な今村夏子さんの世界観に引き込まれてしまったので『こちらあみ子』などの別の作品も読もうと思います。
読者が答えを想像できる作品というのが今村さんの作品の魅力なのかもしれません。