としおの読書生活

田舎に住む社会人の読書記録を綴ります。 主に小説や新書の内容紹介と感想を書きます。 読書の他にもワイン、紅茶、パソコン関係などの趣味を詰め込んだブログにしたいです。

2020年09月

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芥川賞候補作と河合隼雄物語賞受賞作という言葉に惹かれ、今村夏子さんが書いた『あひる』を読みました。

『あひる』は独特な世界観がある作品ですごく楽しめました。本作は全三篇からなる短編集なのですが、短編とは思えないほど深いメッセージ性がある作品ばかりです。



本作についての考察と感想を書こうと思います。未読の方はネタバレもあるのでご注意ください。


あひる


あひるを買い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない―—。


「あひる」を含め、全編に言えることなのですが、本書の作品は文字数が少なく、難し言い回しがなく、普段本を読みなれていない人でも簡単に読むことができます。

そのため、内容はすごく分かりやすいのですが、描かれる日常の中に少し違和感が混ざりこんでおりその違和感をなかなかぬぐいきることができません。

私が本作を読んで感じた疑問は以下の3点があります。

  1. 誕生日会の夜に訪れた少年は誰なのか?

  2. なぜわたしと小さな女の子以外はのりたまが入れ替わっていたことに気が付かなかったのか?

  3. 主人公である「わたし」の正体は?


1. 誕生日会の夜に訪れた少年は誰なのか

誰も来なかった誕生日会の夜遅くに、「家のカギを失くした」といって一人の少年が家を訪れます。結局カギは見つからなかったのですが、誕生日会で振る舞う予定であったカレーとケーキをたらふく食べて少年は一人帰っていきます。

「わたし」はどこかで見たことのあるその少年を父と母を慰めに来たのりたまであると考えており、その少年が訪れた翌日にのりたまのもとへ行きお礼を言っています。

現実的に考えるとこんなことは、ありえないのですが少年の「色白」という特徴とのりたまの「白い羽」は二人が同一人物であったと想定できるかもしれません。

また、少年がなんでもお腹いっぱいになるまでたらふく食べるという姿ものりたまと一致しています。

ただ本当にその少年の正体がのりたまであったかは、物語中では明確に明かされておらず。作品を読んだ読者の創造に任せるといったもののような気がします。



2. なぜわたしと小さな女の子以外のりたまが入れ替わっていたことに気が付かなかったのか


物語中でのりたまと呼ばれるあひるは三匹いたのですが「わたし」と物語の最後で登場した小さい少女以外はのりたまが入れ替わっていることについて言及していません。

主人公の視点から物語をとらえるとのりたまは入れ替わっているのですが、それ以外の視点から考えるとのりたまは一匹のあひるであった可能性もあるので本当に入れ替わっていたのかどうかは分かりません。

現実的に身近にいるものが多くの人が気が付かずに入れ替わるということはありませんが、物語中では、あひるが入れ替わるのはおかしくない世界であり、作中の弟や子どもなどの人間ももしかしたら読者が気が付かない間にいれかわっている可能性があります…。



3. 主人公である「わたし」の正体


主人公である「わたし」は一見、資格取得のために日々勉強を続けている女性なのですが違和感があります。

まず、弟が結婚していることから考えるともういい年齢のはずなのに毎日のように家で勉強しているだけで定職につかず結婚すらしていません。

両親は弟に子どもができるかどうかは心配しているのに、姉のことは全く心配しておらずまるで姉はいなくてもいいような存在として扱われています。

また、のりたまを見に来た子供が窓から顔をだしている「わたし」にすごく驚く場面があります。

これは、まるで「わたし」が存在しない人間であるかのようです。

物語の最後で弟は両親にだけ赤ちゃんができたことを報告し、その半年後引っ越してきます。わたしは、赤ちゃんが生まれた後も写真だけでしか赤ちゃんを見たことがないという描写があり、弟からはのけものあつかいです。

私には作者である今村夏子さんが「わたし」という存在にどういう意味を持たせたかったのかがいまいち理解できていません。

子どもに対してのいつまでも資格をとるということだけを生きる目的(資格を本当にとる気があるかは分からない)にしている「わたし」のような存在になるなというメッセージなのでしょうか。






おばあちゃんの家


私にはインキョに住むおばあちゃんがいる。あるときを境に、おばあちゃんが独り言をつぶやいたり、杖なしで歩くようになったり、まがっている背筋が伸びてきた。まるでどんどん若返っているみたいだ—―。

「おばあちゃんの家」は「もりの兄妹」とつながりがある作品です。「もりの兄妹」を読めばおばあちゃんが突然独り言を言うようになった理由は分かるのですが、おばあちゃんの不思議はそれだけではありません。

おばあちゃんがどうして、どんどんと若返っていたのかが分かりません。

そもそも物語序盤では、おばあちゃんは足が悪くあまり歩けないという設定でした。しかし、物語中盤になり、昔ようこが迷子になっていたときにおばあちゃんが杖を持たずに迷子になっていたようこを迎えに来てくれていたことが分かります。

この時点でおばあちゃんは家族には意図的に足が悪いように見せつけていたことが分かります、なぜおばあちゃんがそのようなことをしていたのかは謎です。

またようこが迷子になった際、自宅に電話をかけますがなぜインキョにいるはずのおばあちゃんが短いコール数ででることができたのでしょうか。

終盤で「おばああちゃんがどこからでも自由に出入りする」と書かれていたのですが、このことから恐らく昔から誰も家にいないときはおばあちゃんは勝手に家に出入りしていたことが分かります。

そもそもおばあちゃんは家族の誰とも血がつながっていないにも関わらず、父が生まれたときからインキョにいたようなので、実はおばあちゃんであるというのも嘘で座敷わらしのような存在なのかもしれません。



森の兄妹


「森の兄妹」はタイトルと貧乏で可哀想な兄妹という設定からなんとなく「ヘンゼルとグレーテル」を連想させる作品です。

モリオとモリコの母は病気であることから、モリオは家族をささえているすごくいいお兄ちゃんです。

ある日、モリオとモリコでいつものように三時のおやつを森の中に調達しに行っているときに、モリオたちは「おばあちゃんの家」に登場したおばあちゃんと出会います。

おばあちゃんがモリオになんでもあげるといってお菓子をくれるので、モリオはおばあちゃんのもとに足を運ぶようになります。しかし、おばあちゃんの誕生日会の日にようこと出会ったことで、モリオがそれ以降おばあちゃんのもとを訪ねることがなくなります。

どうしてモリオは突如おばあちゃんの家を訪ねなくなったのだろうか?

私は、それはお母さんがなんらかのきっかけでお金に困ることがなくなり、モリオがお腹を減らして出かけることがなくなったからではないのかと推測します。

物語の終わりにお母さんがモリオがずっと読みたかった「魔剣とんぺい」のコミックを最新刊まで全巻買って来てくれます。今まで貧乏でモリオが欲しいものはもらえなかったのに、突如お母さんが買って来てくれたことから経済状況が変化したと考えられます。

またこの作品は童話を連想させるような要素が多いことから最後はハッピーエンドになる可能性があるということも想像できます。



最後に


『あひる』をきっかけに独特な今村夏子さんの世界観に引き込まれてしまったので『こちらあみ子』などの別の作品も読もうと思います。

読者が答えを想像できる作品というのが今村さんの作品の魅力なのかもしれません。






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辻村深月さんの本屋大賞受賞後、第一作がついに発売されました!

『噛みあわない会話と、ある過去について』は短編四作が収録されている。

本書の帯裏に「救われるか後悔するかは、あなた次第。」と書かれているが、本書を読み終わった人ならばこの言葉が本書を表現するのに最適な言葉であると分かるでしょう。






『噛みあわない会話と、ある過去について』のあらすじ



ナベちゃんのヨメ


大学時代、コーラス部でよく女子とつるんでいた男を感じさせない男友達ナベちゃん。大学を卒業して七年、ナベちゃんが結婚するという。

部活仲間が集まった席で紹介された婚約者は、ふるまいも発言も、どこかズレていた。

戸惑う私たちに追い打ちをかけたのは、ナベちゃんと婚約者の信じがたい頼み事であった…


パッとしない子


小学校教師の美穂には、有名人になった教え子がいる。教え子の名は高輪佑。国民的アイドルグループ「銘ze」の一員だ。

しかし、美穂が覚えている小学生の彼は、運動会の入場門さ制作で独自の芸術性を見せたこと以外はおとなしくて地味な生徒だった。

TV番組の収録で佑が美穂の働いている小学校を訪れる。久しぶりの再会が彼女にもたらすものは…。


ママ・はは


小学校教員の私は、同僚のスミちゃんの引っ越しを手伝っていた。

保護者会での真面目すぎてずれている児童の母の話をきっかけにスミちゃんの真面目すぎた母親との昔話が語られた。

私は、スミちゃんの話を聞いているうちにある違和感を感じる。その違和感の正体とは…。


早穂とゆかり


地元の雑誌『SONG』のライターをしている早穂は、教育者として有名になった同級生のゆかりの取材を行うことになった。

早穂は、ゆかりは小学生のころは地味で目立たないタイプのイメージがあったため、ゆかりの成功が実感できなかった。

久しぶりに会うゆかりから早穂にある言葉が告げられる…。




感想(ネタバレあり)


噛み合わない会話とある過去についてを読んだときに、辻村深月さんは本物の天才だと感じた。

ここまで読者に強いメッセージを与える小説家は中々いないのではないのだろうか。

本書は、人によって思い出のとらえ方が違うというテーマで書かれている。

思い出のとらえ方が違えば会話が噛みあわない。まさに本書のタイトルがテーマとなっている。

以下、各物語の感想を書いていきます。


ナベちゃんのヨメ


『ナベちゃんのヨメ』では、女性陣はナベちゃんの嫁の自分の友人のふりをして結婚式に出て余興をほしいという発言を不快に感じてしまう。しかし、ナベちゃんは友人に対しての嫁の発言を訂正せず逆に余興をしてくれないなら結婚式に出なくていいと言ってしまう。

そんなナベちゃんを見て友人たちは、ナベちゃんは嫁といても幸せではないと思ってしまうが、ナベちゃんは自分を愛してくれる人間の存在に満足していた。

過去の男友達としてしか見てもらえなかった経験がナベちゃんと友人の間での解釈が異なっていたことを佐和たちは気づいた。

『ナベちゃんのヨメ』は、まさに本書のタイトル通りの物語であった。これを読んだとき自分にも人にこういった思いをさせていた経験があるのではないかと思ってしまった。






パッとしない子


『パッとしない子』は、教師の美穂が教え子でアイドルになった佑から感謝の言葉をもらえると思っていたが、逆で自分や弟に対して「パッとしない子」と知り合いに伝えていたことを恨んでいたという話をされることになった。

この物語を読んでいて私は、美穂みたいな人間と関わりたくないと思ってしまった。美穂は、人によって態度をすぐにかえるような存在で、まるで大人になったのに悪い意味で子どものままの人間だ。

また美穂が作っていたクラスに対して、佑の弟は「先生の王国みたいになっている」という発言を残しているが、教職にかかわっている人間で自分のクラスがそのようになっている人は少なくないのではないのだろうか。教員は人によっては、若いうちから子どもや保護者に先生といわれ続けるため自分がすごく偉い存在に感じる人がいるみたいだがそういった教員が本書を読んでいるのならそういった態度を改めなおしてほしい。

物語の最後に佑は「入場門を作ったのは自分ではなく一つ上の学年だ」という発言を残しているが果たしてこれは真実なのか。私は、美穂のような無責任な教員が児童一人一人のことをきちんと覚えているとは思えないので佑の発言は真実であると思った。


ママ・はは


『ママ・はは』は、本作の物語の中ではテーマにそっているものの毛色が少し異なる物語となっていて不思議な話となっている。

スミちゃんがははのことを恨み続けていたらいつの間にか現実世界がねじ変わってははがママに変わっていたという話であった。

物語の序盤でスミちゃんは児童の真面目すぎる母にたいして「そういうお母さんはきっといなくなるよ」という発言をしているが、最後まで読み終わったときやっとこの発言の恐ろしさに気が付くことができた。現実世界でも自分が知らないだけでもしかしたらこういうことが起きているのかもしれない…。

ははを恨んでいたスミちゃんだけが以前のははの記憶を保っているので私との会話に矛盾が生じているのもこの物語の面白い点だ。

教育熱心すぎる母親に限った話ではないが親は子どもに必ずしも恨まれないいわけではないので、恨まれることがないように子どものことを考えて大切に育てなければならない。


早穂とゆかり


『早穂とゆかり』は小学生のころいじめをしていた早穂といじめられたゆかりが数十年ぶりに会うという物語であった。

この物語は「いじめ」は単純に加害者と被害者だけの構図ではないということを表している。加害者が悪いのは間違いないが、加害者に必ずしも悪意があるわけではない。また被害者にもいじめを受ける原因が少なからずある。

ゆかりは早穂に自分のことを悪意があっていじめていたのかを確認する。もし早穂がゆかりに対して、汚物に触れるようなやり方ではなく人間らしく接することができていたら最後にゆかりからいじめ返されるという落ちではなかったのかもしれない。

早穂の視点で物語が進んでいたがゆかりの視点での物語の進行も読んでみたかった。



最後に


本作は全ての短編が非常に面白く優劣がつけがたいが、あえてつけるならば私は『パッとしない子』が最も好きな話だった。

ここまで本記事を読んでくれた方はほとんどの人がすでに本作を読了済みであると思うが、もしまだ読んでいないのならばすぐにでも読んでもらいたい。

メッセージ性の強い短編が四編ものっていて本当に素晴らしい一冊であった。




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