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少し前に話題となっていたカズオ・イシグロさんの『クララとお日さま』を読みました。

前知識として本書の主人公がロボットの少女という知識しかなく、ロボットやAIが好きな私としてはとりあえず読んでみるかという気持ちで購入。

読んでみるとクララという子どもに近いロボットの視点で物語が進みつつも「ロボットと人間の関係」、「階層社会への批判」がテーマとして描かれており、他のロボットが主人公の小説とは一線を画す作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『クララとお日さま』のあらすじ


クララはとあるビルで自分と一緒に過ごしてくれる子どもを持ち望んでいる、AF(Afiticial Friend)だ。

観察能力に優れているクララはショーウィンドウなどから外の景色を見るたびに外の世界に対して、様々な疑問が浮かび上がってくる。

そんなクララのもとにジョジーという少女が現れた。

クララをひと目見て気に入ったジョジーは、数日後に母とともに来店しクララを購入した。

ジョジーの家に来て初めて外の世界にでたクララは知らないことだらけの生活に戸惑いつつも、ジョジーとの生活を楽しんでいた。

クララは人間との生活をともにするうちに人間は孤独では生きることができないなど様々なことを学習していく。

そんな生活を送る中、ある日を境に元々病弱であったジョジーの体調が急変する。

ジョジーの体調の変化がきっかけとなりクララは自分がジョジーの家に来た本当の理由を知ることとなる。



感想(ネタバレあり)


多くは語られない世界観


『クララとお日さま』を読んでいると「AF」や「向上処置」など本作でしか目にしない独特な言葉がでてくる。

最近の小説はこういった設定を事細かく説明するものも多いが本書ではあえて説明しないことで読者に様々なことを考えさせようとしているように感じた。

AFと向上処置についての私なりの解釈をまとめていきます。

AFとは


AFはArtificial Friendsの略称で日本語にすると人口親友である。

本書の世界では教育をうけるために、子どもたちは学校に行かずオブロン端末を使って遠隔で授業を受ける。

そんな子どもたちは、社会性を学ぶためにたまに交流会を開き子どもたちどうしで関わらせるがそれだけでは社会性を学ぶのに不十分である。

そこで子どもたちが一人でいても社会性を学ぶことができるようにするための存在としてAFが開発された。

AFは人間に近い思考をもっており、子どもと同じように学習能力を持っている。

そのため子どもの友達代わりとしてともに生活を送ることができ、子どもの社会性を広げる存在となっている。

現代のオンライン授業などが増えた現実世界でも、社会性を学ばせるためにクララのようなAFが現れる日は近いのかもしれない。

向上処置とは


向上処置は遺伝子操作のことで、本作の世界では98%の子どもが向上処置を受けている。

向上処置を受けている子どもたちは、受けていない子どもたちと比べて学習能力などの人間としての能力が高くなりやすいことが想像できる。

多くの大学では向上処置を受けていない子どもは能力が低いとみなされて、試験を受ける資格すらあたえられず入学することもできない。

リックが向上処置を受けていないことから向上処置を受けるのにはそれなりのお金が必要だと考えることができる。

また向上処置は一見受けない理由が内容に感じるかもしれないが、デメリットとしてジョジーのように病気になるリスクがあり最悪死んでしまう可能性もある。

もしかしたら病気になることを恐れてあえて向上処置を受けていない子どもこの世界には存在するのかもしれない。





激しい格差社会


本作では物語の最初から最後まで格差社会について考えさせられる内容が描かれている。

この格差社会は人間だけではなく、AFたちのなかでも存在するようだ。

第一章ではクララたちB2型のAFのことを最新のB3型のAFたちが見下しているシーンが印象的だ。

人間により作られたAFたちがこのような心を持っていることから、それを作った人間たちが下のものを見下すのを当たり前としている社会の縮図が想像できてしまう。

第二章以降では、向上処置を受けていない人間が向上処置を受けた人間に見下されている様が印象的である。

特にそのシーンが顕著なのは交流会の場面である。

リックが向上処置を受けていない子どもだという理由だけで、周りの子どもたちがリックのことを哀れんでいることが分かる。

このような態度をとるのは、大人たちが普段から向上処置を受けていない子どもを見下しているからだろう。


また、向上処置を受けていないと多くの大学では試験を受ける資格すら得ることができない。

私はこの物語を読んでいて向上処置を受けるのには多少なりともお金が必要だと解釈した。

そのため、カズオ・イシグロさんはお金がないだけでどんなに賢くても教育を受けられない、悲しい子どもの存在を読者にリックという登場人物を通して伝えたかったのではないのかと思われる。


AFの最後


ジョジーの大学進学が決まった後、お役御免となったクララは廃棄される。

クララが廃棄された場面を読んだ私はなんとも言えない気持ちとなった。

ジョジーを成長させるという役割は終えたかもしれないが、その後母親とともに実家で暮らしたり、ジョジーとともに大学に行くなどのクララがジョジーたちと今後もともに過ごすという選択肢はなかったのだろうかと思ってしまう。

ジョジーはクララに対して別れ際に「あなたは素晴らしい友人だったわ、クララ。」という言葉を放っている。

こんな言葉を放っているにも関わらず廃棄されたことから、クララがどんなに素晴らしく人間のように振る舞うことができるロボットだったとしても、ジョジーたちにとってクララは人間になりきれていない単なる物なんだということが分かる。

現代社会ではまだクララのような心を持っていると言えるようなロボットは存在しない。

今後もし、クララのような存在が生み出されたとき私たちは彼女たちの役割が終えたときジョジーたちのように廃棄してしまうのだろうか。

最後の場面はAIが発展している今だからこそ、もし人間と同じような存在が生まれたときにどういう扱いをするのかを考えさせられてしまう。



まとめ


『クララとお日さま』は格差社会という現代社会の問題と心を持ったAIが現れた後の社会の問題が描かれておりとても面白い作品でした。

これをきっかけにカズオ・イシグロさんの他の作品も読んでみたいなと思いました。