としおの読書生活

田舎に住む社会人の読書記録を綴ります。 主に小説や新書の内容紹介と感想を書きます。 読書の他にもワイン、紅茶、パソコン関係などの趣味を詰め込んだブログにしたいです。

カテゴリ: 書評

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テレビドラマ化された『書店ガール』の著者である碧野圭さんが、新しく『凛として弓を引く』という女子高生と弓道の関わりを選んだ作品を出していたので読んでみました。(私が気がついたときにはすでに第二巻が発売していましたが…)

本作は主人公が女子高生ではあるものの部活動の弓道ではなく、社会人が主催している弓道会を舞台として描いているのが特徴です。

スポーツとしてではなく、伝統的な武道である弓道の良さを描いている作品でした。

弓道未経験ながらも弓道ってすごい美しいなと感じてしまい、自分も弓道してみたいと感じさせられる作品で面白かったです。

以下、あらすじと感想になります。



『凛として弓を引く』のあらすじ


中学卒業後、東京に引っ越してきた矢口楓は高校入学までの期間に近所を散策していたところ、偶然足を踏み入れた神社の中で弓道場を見つけた。

その弓道場では大人に交じりながら一人の少年が弓を引いていた。

楓は少年の美しい姿に魅せられ、それと春休み期間中に神社の弓道場で初心者向けの弓道体験教室をやっていたこともありそこの弓道会へと入門する。

体験教室にはフランス人の男性、楓の祖母ぐらいの年齢の女性、30代ぐらいの女性と年齢が近そうな美しい少女と今まで楓が関わったことのない様々な人たちが参加していた。

弓道を体験できるということでいきなり弓を引かせてもらえると思っていた楓だったが、いざ教室が始まってみると説明が多くなかなか弓に触ることができなかった。

はじめのうちは説明の多さにうんざりしていたが、数日間弓道を体験すると日本古来の武道である弓道の奥深さに魅了されていく。

これは女子高生の青春と弓道の美しさを描いた物語だ。



感想(ネタバレあり)

弓道の魅力を描いた物語の構成


最初にも書いたとおり私も弓道を経験したことがなく、弓道に関する知識は物語冒頭の楓と同じ状態であったため楓とともに弓道に興味を持てるのがこの作品の面白いところでした。

弓道って弓を撃って的にたくさん当てることができる人が上手い人だと思っていたのですが、この物語を読んでその考えは違うことが分かりました。

もちろん弓を引く技術も大切なのですがそれ以上に作法が大切であり、それこそが弓道が武道でありスポーツではない理由なんだなと感じました。

楓も最初のうちは弓を引くことが楽しいと感じていましたが、物語が進むにつれて武道独特の空気感に魅了されていっています。

また段位試験でもただ弓を引くだけではなく、入場から退場までの作法を見られていたり、弓道に関する筆記試験があるのも独特だなと思いました。

調べてみると剣道などの他の武道の段位試験も筆記試験があるようで、サッカーや野球のようなスポーツでは考えられないシステムです。

物語の中でも乙矢が弓を綺麗に当てたにも関わらず、三段に昇級できない場面では武道であるからこそ動作の細かな美しさを審査員たちが見ていることが分かりました。

このように本作は楓とともに読者が弓道に興味を持てる構成になっているところが良かったです。



大人と関わることで成長する楓


この作品は弓道の美しさの他に大人と関わることで生じる高校生の成長も描いていました。

物語の舞台が部活動ではなく、社会人たちも参加するような弓道会だからこそ楓の成長を描くことができたのでしょう。

一般的な高校生が大人と接する機会といえば親と話すときか、学校や塾で教師や講師と関わるときぐらいな気がします。

この物語では弓道会を通して楓は多くの大人と関わっていきます。

楓も最初のうちは人見知りでなかなか知らない人とは話せませんでしたが、モローやゆかりたちと関わっていくうちに成長が感じられました。

物語の最後では弓道場を残すかどうかの大人たちの話し合いの中で、自分の意見をはっきりと述べており、子どもだからと甘えているのではなく弓道会の一員として楓が自覚を持っていることを感じることができました。

こういった物語を読んでいると現実世界でももっと学生と大人が関わるような工夫が必要だと感じます。

様々な大人と関わることで子どもはより成長することができると思うので国全体でそういった仕組みを作っていけたらいいのにな…。


まとめ


『凛として弓を引く』は弓道の美しさと女子高生の成長を描いた作品でした。

すでに第二巻も発売しているようなのでそちらも早く読みたいです。





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話題になっている夏川草介さんの『本を守ろうとする猫の話』を読みました。

夏川草介さんといえば『神様のカルテ』の印象が強いので、医療系の作品しか書いていないのかなと思っていました。

『本を守ろうとする猫の話』はどうして本を読むのかなどを説いてくれる作品で、読書家にとっては改めて本をよむ理由を考えさせられる作品で非常に面白かったです。

以下、あらすじと感想になります。




『本を守ろうとする猫の話』のあらすじ


夏木林太郎は幼い頃に両親が離婚したことが原因で、これまでずっと祖父とともに二人で暮らしてきた。

祖父は「夏木書店」という小さな古書店を営んでおり、林太郎は祖父の影響を受けてか昔から本を読むのが好きだった。

林太郎が高校生になったころ祖父が突然なくなり、林太郎は叔母に引き取られることが決まる。

叔母に引き取られると転校することになるため、友人のいない林太郎は学校にはいかず夏木書店の本の整理をして引っ越しまでの時間を過ごそうとする。

そんな林太郎のもとにトラネコが現れた。

そのトラネコは不思議なことに人間の言葉を話すのだ。

トラネコが林太郎のもとを訪れた理由は本を守るために林太郎の力を借りたいらしい。

トラネコについて行き夏妃書店の奥に歩いていくと、見覚えのない本を巡る迷宮につながっていた。

本を守るため林太郎は毎日本を100冊読む男、本の内容を一瞬で理解できるようにするために要約の研究をする男、売れる本を出版する男と議論することとなる。

彼らとの議論を通して林太郎は本を守ることができるのだろうか…。



感想(ネタバレあり)


『本を守ろうとする猫の話』を本が好きな人が読んだら、迷宮にでてきた男たちはどこか自分と似ていると思う人が多いような気がします。

実際に私は昔の自分と考え方がにているなと感じた人物がいました。


どうして本を読むのか


本書はどの章も非常に面白かったのですが、個人的に一番好きなのは第一章の「閉じ込める者」が好きです。

この章では本をたくさん読むことには価値があるが、同じ本を何度も読むことは価値がないという男が林太郎の敵として現れます。

本を一度だけ読んで本棚に閉じ込めておくというこの男の行為が昔の自分の読書の仕方に似ていたのでとても印象的でした。

私も学生の頃に本をたくさん読み知識を詰め込むことに価値があると考えていた時期がありました。

当時は一日に一冊本を読むという目標を掲げており、今考えると悪い目標ではないとは思うものの何かを知ることではなく本を読むことが目標になっているなと思います。

林太郎も男に対して以下のような台詞を放っています。
「本には大きな力がある。けれどもそれは、あくまで本の力であって、お前のちからではない。」
夏川草介『本を守ろうとする猫の話』 p.59

昔の私も男のように本をたくさん読んで自分が偉いだろうということを周りに自慢したかっただけなのです。

本というものは偉大で読めば読むほど知識が身についたように感じるかもしれません。

しかしどのように本を読んで得た知識を活かすか、その本の考えに対して自分がどう思っているのかなど自分で考えることが大切なんだということを本作を読んで改めて再認識することができました。



要約本に価値はあるのか


第二章で本を可能な限り短い時間で読めるようにするための研究を行っている男が現れます。

彼は太宰治の走れメロスを「メロスは激怒した。」という一言だけに要約します。

走れメロスを知っている人からしたら間違ってはいない要約だと感じるのですが、走れメロスで大切なのはメロスがなぜ激怒したのか、そしてその後どうなったのかということだと思います。

最近では難解な文学作品などを簡単に読めるように漫画にしたり、2ページほどに要約されている本をよく見ます。

このような本が存在する理由は男の言う通り、現代人は娯楽が多すぎて時間がないからなんでしょう。
「人は今、ゆっくりと本を読むことを忘れてしまった。速読もあらすじも、今の社会が求めているものだとは思わんかね」
夏川草介『本を守ろうとする猫の話』 p.118
正直私は本を短時間で読めるように要約していることは悪いことだとは思いません。

ただ、その要約はあくまで要約した人の主観が入っているものだと知ったうえで読んでもらいたいとは思います。

また、要約本もそれだけを読んで本の内容を知った気にさせるのではなく、読者が原作を読みたくなるようなものが増えてほしいなと思います。



まとめ


本作は夏川草介さんの本に対する愛が伝わってくる作品で面白かったです。

本記事を読んで興味を持った方はぜひ『本を守ろうとする猫の話』を読んでみてください。





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住野よるさん『腹を割ったら血が出るだけさ』を読みました。

最初は周りを気にしてばかりいる人間を描いただけの作品だと思いながら読んでいて、なかなか読み進みませんでした。

しかし、読んでいるうちに実際に今の若者の多くはSNSなどでこの登場人物たちのように自分を偽っているのかもなと考え始めることができなかなかおもしろかったです。

人によっては合わないと感じる人も多いのかもしれませんが、個人的には満足できる作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『腹を割ったら血が出るだけさ』のあらすじ


茜寧は世間一般から見れば他の女子高生たちと同じような趣味や好みを持ち、友達や恋人に囲まれ充実した高校生活を送っている少女だ。

しかし、そんな平凡な彼女は「愛されたい」という感情のために自分を偽って生きているにすぎない。

友人との会話でも友人が自分のことを好きになってくれるように考えながら発言や口頭をしている。

愛されたいという感情に囚われながら生活をしていた茜寧だったが、「少女のマーチ」という小説に感化されいつか自分を理解し受け入れてくれる人が出てきてくれるかもしれないと思うようになる。

そんなときに「少女のマーチ」に登場するアイそっくりの逢に出会う。

逢が自分を受け入れてくれる人物だと感じた茜寧は、「少女のマーチ」の物語になぞらえるように逢との仲を深めようとする…。

自分を偽る茜寧、真実しか考えない逢、過去を塗り替えたアイドル樹里亜の考え方が違う三人の物語が交差する青春群像劇。




感想(ネタバレあり)


個人的にこの作品は表面的だけを読めば浅いけど、深く考えれば現代人の悩みを表現している作品だなと思いました。

現代を生きる人の多くはSNSや普段の生活でどこか自分を偽りながら生きています。

そんな生活を送る中、心のどこかで自分を偽りながら生きることに嫌気を感じている人は少なくないのかもしれません。

この作品はそんな人たちに「自分を偽ることは悪くない。無理に腹をわらなくてもいい。」ということを住野よるさんなりに伝えようとした作品だと私は感じました


本作の登場人物である茜寧、樹里亜それと逢はそれぞれ違う生き方をしています。

茜寧は人から愛されるために現在進行系で自分を偽りながら生きています。

樹里亜はアイドルとして多くの人に愛される存在になるために過去の自分を亡かったものとして、今のボーイッシュな性格が本来の自分であると偽り生きています。

一方、逢は自分が好きな服を着たりするなど自分に正直に生きています。

偽りだらけの生活を送っている人からしてみれば、逢のように自分をさらけ出して生きている人は偉いと感じるかもしれません。

しかし、茜寧や樹理亜のように自分を偽りながら生きるのは悪いことではないと思います。

茜寧は愛されるために自分を偽って生きていることに苦しんでいますが、物語の最後では愛されるために生きているのも真実の自分だと理解し、偽ることに心を痛めながらも自分の生き方を受け入れようとします。

樹理亜も過去の自分が褒められることを今の努力が否定されているという風に苦しみながらも、最終的にはアイドルとして受け入れてもられるなら過去も現在もどんな生き方をしていても自分は自分だと前向きな気持ちで歩み始めます。

この二人のように自分が幸せに過ごすことができるのなら無理に腹を割って生きようとしなくてもいいのではないのでしょうか。

茜寧や樹理亜にとっての逢のように本当に困ったときに腹を割れる存在さえ作ることができれば、自分を偽っていても幸せに生きることができるように思います。



まとめ


『腹を割ったら血が出るだけさ』は今までの住野よるさんの作品以上にターゲットを悩める若者にしぼっている作品だと思いました。

腹を割ることができず偽りだらけの自分に苦しんでいる人は共感できる作品だし、それ以外の人たちにとってもそういった人たちの気持ちを理解できると思うのでぜひ読んでみてください。




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有川浩さんの『イマジン?』が文庫化されていたのでさっそく購入して読みました。

本作は映画やドラマなどの映像作品を作成している制作会社に焦点を当てた作品となっています。

監督や俳優のようには目立たないが、スタッフロールで名前がでるような人たちが映像作品を作成するにあたりどれだけ努力しているのかが分かり非常に面白かったです。

また、第一章のタイトルが「天翔ける広報室」となっており、自身の『空飛ぶ広報室』をモデルに物語を作っているなど有川浩ファンにはたまらない内容となっています。

以下、あらすじと感想になります。



『イマジン?』のあらすじ


バイト仲間に突然「朝五時。渋谷、宮坂益上」でバイトがあると言われたことをきっかけに良井良助の人生は変わった。

良助は子どものころに見た「ゴジラ対メカゴジラ」に自身が住んでいた別府が一瞬舞台として現れたことをきっかけに映像の世界に夢を抱く。

映像の専門学校を卒業して、春から東京の制作会社で働くことが決まったのだが、入社日に会社に行ってみるとそこはもぬけの殻だった。

どうやら会社が計画倒産をしたらしい。

良助は他の映像の会社に転職しようとするのだが、計画倒産をした会社の関係者というだけで狭い映像の世界ではどの会社からも嫌な目で見られる。

映像の世界を諦めバイトに明け暮れていた27歳の良助が、言われた通り朝五時に渋谷の宮坂益上に行ってみるとそこでは良助も毎週見ている「天翔ける広報室」というドラマの撮影が行われていた。

このバイトをきっかけに「イマジン」に誘われた良助は映像の世界に関わることとなる。

良助が憧れていた映像の世界は楽しいことばかりではなく、ありとあらゆる困難があるのだが、良助たちはどんな無理難題も情熱と想像力で解決していく。

映像作品の舞台裏を描いたパワフルなお仕事小説がここに始まる。



感想(ネタバレあり)


エンドロールに現れる人たちの努力


映像の世界で働いていない私にとって映画やドラマなどは俳優、監督それと脚本家の3つの要素さえそろっていればなんとかなるというイメージを持っていた。

しかし、『イマジン?』という作品はこのイメージを大きく変えてくれた。

どんなに有名な俳優や監督がその作品に関わっていたとしても、その裏にいる制作会社の人たちがいなければ素晴らしい作品は出来上がらないんだということに気付かされた。

良助たちイマジンのメンバーはお茶場の用意をしたり、ロケ先を取材したりなどやっている仕事は正直地味だ。

しかし彼らがいなければ良い作品を取れないことがこの物語を読んでいると伝わってくる。

例えば映像の中で現れる喫茶店などの何気ない舞台も、彼らが脚本を読み込みその場所をイメージしながら取材することで最高の舞台を見つけられる。

どんなに脚本が良い作品でも物語と舞台のイメージが合わなかったら駄目な作品になるだろう。彼らはそうならないように努力をしているということが伝わってくる。

また、物語の中で良助や殿浦が行っていたように何気ない一言を入れることで現場の空気を良くしている場面がある。

これは想像になってしまうが実際の現場でも制作の人たちは現場の空気を良くするために影で手回しをしてくれているのかもしれない。

この作品を読んで、素晴らしい映画を見たときは監督や俳優だけを褒め称えるのではなく、エンドロールに登場する彼ら一人一人に感謝をしたいなと思った。





想像し続けることの重要性


この作品のタイトルは『イマジン?』ということで想像し考え続けることの大切さを読者に説いている。

この物語では良助が想像し考えることでパワハラに苦しんでいた幸を救う場面などが印象的だ。

もしこの場面で良助が考えることができない人間だったら幸は映像業界の世界から去っていた可能性もあるだろう。

映像業界だけではなくどんな業界で働いているにしても常にありとあらゆることを考えて想像するのは重要なことだ。

作業を黙々とこなす人間ではなく、イマジンで働く人達のように様々なことを考え想像することで問題に対応できるような人間になりたいと思った。



映像業界のシビアな現場


映像業界は関わったことがない私からしてみると凄く華やかな世界というイメージがある。

しかし、実際はこの物語で出てきたように年功序列のなどの古いしきたりがありシビアな世界なのだろう。

本作では第一章では苦労はあるものの楽しい華やかな世界として映像業界を描いている。

しかし、二章目以降ではパワハラやセクハラがあったりするなど映像業界の闇の部分を描いている。

小説なので明るい楽しい部分だけを描くことも可能なのだろうが、あえてそうしないのは有川浩さんなりに映像業界の闇を改善してほしいという思いがあるからではないのだろうか。

こういった作品をきっかけに業界の嫌なところが少しずつ改善されていけばよいのにな。



まとめ


久しぶりに有川浩さんのお仕事小説を読んだのだが、『イマジン?』も元気と情熱をもらえる作品でした。

これをきっかけに『空飛ぶ広報室』や『県庁おもてなし課』などのお仕事小説を読み直したいなと思いました。




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少し前に話題となっていたカズオ・イシグロさんの『クララとお日さま』を読みました。

前知識として本書の主人公がロボットの少女という知識しかなく、ロボットやAIが好きな私としてはとりあえず読んでみるかという気持ちで購入。

読んでみるとクララという子どもに近いロボットの視点で物語が進みつつも「ロボットと人間の関係」、「階層社会への批判」がテーマとして描かれており、他のロボットが主人公の小説とは一線を画す作品でした。

以下、あらすじと感想になります。



『クララとお日さま』のあらすじ


クララはとあるビルで自分と一緒に過ごしてくれる子どもを持ち望んでいる、AF(Afiticial Friend)だ。

観察能力に優れているクララはショーウィンドウなどから外の景色を見るたびに外の世界に対して、様々な疑問が浮かび上がってくる。

そんなクララのもとにジョジーという少女が現れた。

クララをひと目見て気に入ったジョジーは、数日後に母とともに来店しクララを購入した。

ジョジーの家に来て初めて外の世界にでたクララは知らないことだらけの生活に戸惑いつつも、ジョジーとの生活を楽しんでいた。

クララは人間との生活をともにするうちに人間は孤独では生きることができないなど様々なことを学習していく。

そんな生活を送る中、ある日を境に元々病弱であったジョジーの体調が急変する。

ジョジーの体調の変化がきっかけとなりクララは自分がジョジーの家に来た本当の理由を知ることとなる。



感想(ネタバレあり)


多くは語られない世界観


『クララとお日さま』を読んでいると「AF」や「向上処置」など本作でしか目にしない独特な言葉がでてくる。

最近の小説はこういった設定を事細かく説明するものも多いが本書ではあえて説明しないことで読者に様々なことを考えさせようとしているように感じた。

AFと向上処置についての私なりの解釈をまとめていきます。

AFとは


AFはArtificial Friendsの略称で日本語にすると人口親友である。

本書の世界では教育をうけるために、子どもたちは学校に行かずオブロン端末を使って遠隔で授業を受ける。

そんな子どもたちは、社会性を学ぶためにたまに交流会を開き子どもたちどうしで関わらせるがそれだけでは社会性を学ぶのに不十分である。

そこで子どもたちが一人でいても社会性を学ぶことができるようにするための存在としてAFが開発された。

AFは人間に近い思考をもっており、子どもと同じように学習能力を持っている。

そのため子どもの友達代わりとしてともに生活を送ることができ、子どもの社会性を広げる存在となっている。

現代のオンライン授業などが増えた現実世界でも、社会性を学ばせるためにクララのようなAFが現れる日は近いのかもしれない。

向上処置とは


向上処置は遺伝子操作のことで、本作の世界では98%の子どもが向上処置を受けている。

向上処置を受けている子どもたちは、受けていない子どもたちと比べて学習能力などの人間としての能力が高くなりやすいことが想像できる。

多くの大学では向上処置を受けていない子どもは能力が低いとみなされて、試験を受ける資格すらあたえられず入学することもできない。

リックが向上処置を受けていないことから向上処置を受けるのにはそれなりのお金が必要だと考えることができる。

また向上処置は一見受けない理由が内容に感じるかもしれないが、デメリットとしてジョジーのように病気になるリスクがあり最悪死んでしまう可能性もある。

もしかしたら病気になることを恐れてあえて向上処置を受けていない子どもこの世界には存在するのかもしれない。





激しい格差社会


本作では物語の最初から最後まで格差社会について考えさせられる内容が描かれている。

この格差社会は人間だけではなく、AFたちのなかでも存在するようだ。

第一章ではクララたちB2型のAFのことを最新のB3型のAFたちが見下しているシーンが印象的だ。

人間により作られたAFたちがこのような心を持っていることから、それを作った人間たちが下のものを見下すのを当たり前としている社会の縮図が想像できてしまう。

第二章以降では、向上処置を受けていない人間が向上処置を受けた人間に見下されている様が印象的である。

特にそのシーンが顕著なのは交流会の場面である。

リックが向上処置を受けていない子どもだという理由だけで、周りの子どもたちがリックのことを哀れんでいることが分かる。

このような態度をとるのは、大人たちが普段から向上処置を受けていない子どもを見下しているからだろう。


また、向上処置を受けていないと多くの大学では試験を受ける資格すら得ることができない。

私はこの物語を読んでいて向上処置を受けるのには多少なりともお金が必要だと解釈した。

そのため、カズオ・イシグロさんはお金がないだけでどんなに賢くても教育を受けられない、悲しい子どもの存在を読者にリックという登場人物を通して伝えたかったのではないのかと思われる。


AFの最後


ジョジーの大学進学が決まった後、お役御免となったクララは廃棄される。

クララが廃棄された場面を読んだ私はなんとも言えない気持ちとなった。

ジョジーを成長させるという役割は終えたかもしれないが、その後母親とともに実家で暮らしたり、ジョジーとともに大学に行くなどのクララがジョジーたちと今後もともに過ごすという選択肢はなかったのだろうかと思ってしまう。

ジョジーはクララに対して別れ際に「あなたは素晴らしい友人だったわ、クララ。」という言葉を放っている。

こんな言葉を放っているにも関わらず廃棄されたことから、クララがどんなに素晴らしく人間のように振る舞うことができるロボットだったとしても、ジョジーたちにとってクララは人間になりきれていない単なる物なんだということが分かる。

現代社会ではまだクララのような心を持っていると言えるようなロボットは存在しない。

今後もし、クララのような存在が生み出されたとき私たちは彼女たちの役割が終えたときジョジーたちのように廃棄してしまうのだろうか。

最後の場面はAIが発展している今だからこそ、もし人間と同じような存在が生まれたときにどういう扱いをするのかを考えさせられてしまう。



まとめ


『クララとお日さま』は格差社会という現代社会の問題と心を持ったAIが現れた後の社会の問題が描かれておりとても面白い作品でした。

これをきっかけにカズオ・イシグロさんの他の作品も読んでみたいなと思いました。



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