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まもなく映画が公開される、西加奈子さんの『まく子』が文庫化されたので読んでみました。

読み始めは自分にはあまり会わない本かと思ったのですが、主人公である慧の思いを理解していくにつれてどんどん引き込まれていってしまいました。

西加奈子さんの作品をいくつか読んでいるのですが、やっぱりどの作品を読んでも心理描写が上手だと思わされる作家さんですね。

以下、簡単に感想をまとめていきます。ネタバレも含まれますので未読の方は注意してください。


西加奈子『まく子』の感想


大人になると失ってしまうもの


主人公の慧は、小学五年生になり子どもと大人の狭間にいる少年で、周りの女子や自分の体が変化していくことを感じて大人になっていくことを恐れています。

ただ大人になるのを恐れている反面、自分より年下の子どもを子どもっぽいと思ったり、すでに年齢的には大人であるにに大人になりきれていないドノを軽蔑していたりと大人になり切れないのも嫌だと思いを持っています。

本作は、そんな慧の子どもから大人に変化するまでの心理をうまく描いている作品で、子どもから大人になる際に「純粋な気持ち」を失ってしまうことがいくつか描かれていました。

純粋な気持ちの一つに「人を信じる気持ち」があります。

まだ小学1年生だったころの慧たちは、一つ年上の類(ルイ)の言ったこと(UFOを見たなど)を何でも信じていました。しかしある日、類の言っていることは嘘ばかりだと気が付いてしまいます。その日を境に慧たちは誰も類の言うことを信じなくなると同時に「人を信じる気持ち」を失いました。

もちろん、大人になり社会にでると全ての人間を信用するわけにはいきません。ただそれでも、人を信じる気持ちというのは失っていいものなのでしょうか。

物語中のドノのセリフに以下のようなものがあります。
「誰かが言うことを、俺は信じるし。それは嘘だって責める前に、どうせ嘘なんだしとかじゃなくって、俺は言葉通り、そのまま受け止めたいんだし。類が虎を見たって言うなら、それを信じるし、状況なんて関係ないし。そいつがそう信じてほしいことを、俺はし、信じるし。」
 西加奈子『まく子』p177 より
ドノは大人になり切れない反面、人を信じる純粋な気持ちを失っていませんでした。大人になり物事を合理的に考えるもの大切かもしれませんがこのようなことを忘れずに成長するのも大切なのかもしれません。

『まく子』を読んだことで失っていた様々なものを思い出せた気がします。




コズエの正体


コズエの正体は最終的に本当に宇宙人であるということが分かりました。

転校してきたしばらく後に慧に「私は宇宙人だ」とつげたコズエの正体ですが、私も物語序盤では慧とどうように冗談で宇宙人と言っているだけだと思っていましたが、物語が進むにつれて少しずつ本当に宇宙人かもしれないと思わされました。

物語序盤ではほとんど無表情であったのに、物語が進むと笑ったりする喜びの感情が芽生えてきました。その結果、いつも常盤城で行っている撒く行為の楽しさを慧に語ったりして人間らしさが増すのを感じさせられました。どんどん人間らしくなる様子が逆に不自然に感じて、宇宙人かもしれないという疑念を持たせます。

また周りの子どもたちがどんどん大人びていくのに対して、コズエはどんどん純粋さを取り戻して子どもに近づいて行っているような感じがしました。西加奈子さんがこういうことを意識して書いたのかは分からないが、こういった様子が人間になりたての宇宙人だという話に真実味を持たせました。

コズエは宇宙に帰る前も、常盤城で砂利を撒くように、自分という存在がいたことを忘れさせないため自身の魂を撒いていきました。本当に『まく子』というタイトルにマッチしている少女でした。


放火犯の正体


作中では、放火犯の候補としてドノや慧の父の浮気相手だったチカがいましたが、本当の犯人はコズエが去った後に慧と同じクラスに転入してきたソラでした。

ソラは母の希望により引っ越すことになりましたが、同級生と別れるのが嫌で引っ越し先で家事が起きれば引っ越しが中止になると考え、祭りの日に慧たちの住んでいる土地に訪れたときに放火を行いました。結果的に引っ越しは中止にはなりませんでしたが、慧たちならコズエと出会った経験を活かしてソラに引っ越してきて良かったという思いを芽生えさせることができるでしょう。



最後に


『まく子』はこのブログでは語り切れないほどの魅力いっぱいの作品なので未読の方は読んでみてください。

もうすぐ映画が公開されますが、小説との違いを確認するために見に行けそうだったら行きたいな…。